10分後も10年後も同じように生きているだろうか。
「私がいなくなったとしても、誰かに残った思い出は生き続けるだろうか。」
中学の頃から好きで、好きで、本当に好きな唯一のガールズバンドがある。
その名もチャットモンチー。私が好きになったバンドは、解散するか、有名になってよくわからない歌を歌うようになるか、のどちらかだ。
そして、彼女たちもまた、解散してしまった。
昔聞いていた曲を、ずっと聞き続けていると、あの頃から私の精神は何も変わっていない、自分だけがあの頃に取り残されてしまっていると、考えてしまう。
私は今も変わらず、青春と呼ばれたあの頃のままだ。
CATWALKというチャットモンチーの曲は、中学生の私の心に刺さって、これこそが私の生き方であると思った。
私がいなくなったとしても、誰かに残った思い出は、生き続けるだろうか。
家族、今まで出会った友人、恋人、知り合い、電車で席を譲った老婆、海外のホテルのお姉さん、ネットの人。
この曲を聞いたときに、私がいなくなったとしても、きっと世界は通常通りに回っていて、いつもの時間に電車が来て、いつものようにお店は開店するんだなぁと、思った。
それでも私は今日もこの、世界のなかで、
息をして、
好きな歌を聞いて、
好きな人のことを思って、
本を読んで、
家族に会いたいと思って、
友達とバカみたいなLINEをして、
未来のことを想像して、
なにか掴もうとしている。
なんとか誰かと関わろうとしている。
その営みに意味があるのかと言われたら、なにもないけれど、私がいなくなったときに、誰かの思いでの中に生きていたいと思う。
人に忘れられることこそが、人の「死」であると私は、信じているから。
明日、私が突然いなくなったら、誰かが私のことを思って心配してくれるだろうか、
不安に思ってくれるだろうか。
一人ぐらいはいてほしいなぁ。
私が死んで灰になった時、この世に確かに私という人間が存在していたことを証明できるのは、私ではなく、私と関わった他者であると思う。
彼らの心に私がいる限り、私の生きた証は証明されるのだと思う。
だからこそ、私は誰かの思い出の一部になりたい。
そのために生きているようなものだとすら思う。
色々な人に会いたいと思うのは、
自分と違う考えの人と会いたいとか、
新しい私を見つけたいとか、
いろんな考えに触れて人生を豊かにしたい、
とかいう綺麗事じゃなくて、
本当はただ、相手の記憶に自分という存在を残すというそれだけな気がする。
世界に自分が忘れ去られないように、自分の断片をいろんな人にばらまき続けている。
と、この曲を聞いて思った。
「10分も10年後も、同じように生きているだろうか」
10分後の自分と、10年後の自分。
自分の意思で、今と同じように生きているだろうか。
なにも変わらないかもしれない。
ただ言えることは、今の私より、生きた時間が多いということ。
10年経つ頃には、ふとしたときに思い出す人はきっと今と違う。
私のことを思う人も、きっと今と違う。
私のなかで生き続けている誰かも、
誰かの中で生き続けている私も、
きっと今と違う。
良いも悪いもない。ただ、流動するだけ。
10分後も10年後も、私は誰かの中にいたい。
そして、この世界に存在していると実感したい。
忘れ去られることがあるのなら、きっと、新しく私を大切に思ってくれる人がまた現れて、流動して、浮遊する。
そんなことを考えていた。
どうでもいい話だけれど、この文章をベランダで書いていたら、4ヶ所も蚊にやられた。
昔からとってもとっても蚊にやられやすい。
血がうまいのか……?
痒い。
痒いという感覚もまた、生きているという実感なのか。
私の血をたっぷり吸った蚊は、
腹に私の遺伝子を連れて、
世界を浮遊しているのだろうか。
なんてね、蚊はただただ憎い。
本当にどうでも良い話だったな。
今日は晴れてよかった。