沈黙と目覚まし時計
おはようございます。朝だ。回らない頭でつらつらと書く。
最近思ったことがあるのだが、これは私の勝手な考えであるので適当に聞き流してほしい。
音楽や絵や小説といった類いのもの、「本物」を生み出す人たちには、「沈黙」している人が多いように感じる。
言わば、彼らにとっての音楽や絵や小説は、言語同然なのではないか、と。
表に出ているものは、内に秘めているもののごく僅かな一部にすぎず、その裏に隠された無限の領域を我々は知ることができない。
それが、どれほど深く、暗く、救いのないものであったとしても。
その得たいの知れない領域の一部を、芸術という形で表現する。それが我々の心を奪う。
と、私は思っている。
だからだろうか。自らのことを、自らのちゃんとした、普通の、私が普段使っていような「言葉」で語りすぎている「芸術家」を見ると疑ってしまう。
何をどう疑うのかわからないが、疑ってしまう。
「沈黙」は無ではない。
目に見えない無限の何かを孕んでいる。
「沈黙」は、盾であり矛である。
「沈黙」には強さがある。
私は「沈黙」が苦手だ。
だからきっと、普通の人なんだろう。
普通な私の朝の沈黙を破ったのは、昨晩自らでセットした目覚まし時計だ。
デジタル画面に表示された6:00。
ピッピッというリズムが、徐々に早くなるタイプの目覚まし時計。
貫かれた沈黙に絶望し、目覚まし時計に手を伸ばす。
あと、5分だけ、心地よい二度寝をしよう。
そのあとのことは、5分後の私に任せよう。
今は何よりとても眠い。
おはよう、そして、5分だけおやすみ。